2018/11/19

チーム・チミーノの栄光

 以前、カテーテル関係で英国のショルドン医師とフランス領アルジェリアのオーバニアック医師を紹介した。こんどは、内シャントを語る上でかならず紹介される米国のJames E. Cimino(チミーノ、1928-2010)医師の話をしよう。


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 彼自身に取材して書かれたRenal and Urology News(2006年10月1日付)も参考にされたい。当初は呼吸生理の研究を志していたチミーノ氏だが、32歳で1960年にブロンクスの退役軍人病院の透析センターを立ち上げを依頼されオファーを受ける。

 彼によれば、当時は(今もだが)バスキュラーアクセスは「血液透析のアキレス腱」だった。透析のたび刺していると、刺せる血管がなくなってしまう。それで1959年に開発されたのがScribner-Quintonシャント(写真)だが、外シャントであり閉塞・感染・皮膚壊死などが多発した。


CJASN 2010 5 2146

 そこで何とかできないかと考えた彼が思い出したのが、学生時代にベルビュー病院でphlebotomist(採血・ルートなどで静脈穿刺する仕事)をしていたときの記憶だった。これは割と有名な話のようだ。

 当時、病院にいた多くの朝鮮戦争の退役軍人のなかには損傷によって動静脈瘻(fistula)を持つ患者がいた。そして彼は、そういった血管は穿刺が容易なことを経験として知っていた。

 ならば、身体の中で血管どうしを人工的につなげてはどうか?というわけだ(それで、この方式を英語ではシャントといわずfistulaという)。最初は心不全などを怖れて(こちらも参照)静脈-静脈シャントを作成したが、流れが少なくうまく行かない。

 心不全は恐ろしい。Do no harmだ。しかし、どれだけ非生理的な流れであっても、バスキュラーアクセスなしでは透析患者さんは「どうしようもない(doomed)」。

 それで意を決して橈骨動脈と橈側皮静脈をつないだ。最初の症例は患者の脱水がつよく血圧が低すぎて閉塞した。そのあと試行錯誤を繰り返し、1966年の学会(ASAIO、まだASNはなかった)に発表し、同年論文もだした(NEJM 1966 275 1089)。筆頭著者のブレシア医師は、当初は3年目レジデントとしてチームに参加していた。

 そんな若いチームの発表なこともあってか、学会ではほとんど無視されたそうだ。しかし、彼によれば「よいネズミ捕り器はいずれ人々の心を勝ち取る(経済学で、クオリティーが宣伝に勝る意味のことわざ)」もので、数年のうちに大ヒットとなった。いまでもだ(最近はeverlinQ®などの血管内アブレーションも行われるが、原理としてはチミーノ・シャントのバリエーションに過ぎない)。


 彼自身はその後、栄養学や緩和ケアの道に進んだが、Calvary Hospitalという米国有数の緩和ケアセンター・グループをつくるなど、どの分野でもパイオニアとして活躍した医師だった。このように現状に満足しないで挑戦する姿勢から学べる点は、多い。改めて冥福をお祈り申し上げる。