2020/06/12

病理検査室の扉を開けよう!

 以前、腎生検の生検針・切り出しについて投稿した本ブログであるが、そのあとプレパラートと報告書が届くまでの過程については、「ブラックボックス」のままだった。そこで今回、病理検査室の扉の奥に広がる世界をご紹介したい。

 なお、各病理染色の基本事項とその診断的な意義については、2012年に投稿したこちらも参照されたい。




1. 検体作成と染色のプロセス

 
 まず、以下のような過程を経て検体スライドができあがる。

 固定・・中性緩衝ホルマリンなどの架橋剤で、腐敗や自己融解の進行を止める。「中性緩衝」とあるように、リン酸ナトリウムでpHを約7.4に調整し、蟻酸の生成(による核酸の傷害)を防いでいる。

 脱水、脱脂、パラフィン浸透・・パラフィン(ろう)を浸透させなければ、スライスしてもギザギザになって切片が作れない。そのために、まずエタノールやメタノールなどで検体の水分を除く。アルコールはパラフィンとの親和性がないため、キシレンなどの溶剤に置換してから、パラフィンを浸透させる。

 なお、この過程は「密閉式自動固定包埋装置」なるもので約24時間かけておこなわれるところもあるようだ。

 包埋(ほうまい)、薄切(はくせつ)・・包埋カセット(または包埋皿)に載せてパラフィンを注ぎ、パラフィンブロックを作る。そして、それをミクロトームとよばれる極薄の裁断器でスライスし、そっと切片をスライドグラスに載せる。載せるときには、刷毛、ろ紙、筆などの小道具が用いられる。

 これだけでも2日はかかるが、そこから染色が始まる。PAS染色を例に挙げると、こんな工程だ(あくまでも一例、施設ごと微妙な違いがある)。

脱パラフィン→脱キシレン→水洗→1%過ヨウ素酸→流水水洗→シッフ試薬→メタ重亜硫酸→水洗→ヘマトキシリン→水洗→塩酸アルコール→ 色だし(ぬるま湯)→水洗→脱水→透徹→封入

 いかがであろうか?筆者は研修医時代に「グラム染色は自分でやるべし!」と教わったが、検査室を散らかし白衣を染めるばかりで、(向いてないな)と諦めたことがある。だから、上記をみただけでも「染物師」ならぬ検査技師さんたちに頭が下がる。

 しかし、外注先から送られるのに2週間はかかる光顕スライドが、3-4日もあればでき上がるなんて、素晴らしいことだ。だから、もしそんな恵まれた施設にいるなら、技師さんたちに感謝しながら「染まりました?」と気持ちよく検査室のドアを叩きたい。


2. 各染色について

 
 ここまでは「社会科見学」のようなものだが、さらに病理検査室の窓から広がる世界を紹介したい。

A. ヘマトキシリン

 「ヘマト」は血、「キシリ」は木のこと(木琴のxylophone、木糖ともよばれるxylitolと同語源)。中央アメリカに生育するマメ科の木(Hematoxylon canpechianum)の幹から取れる染料だ。

 マヤ文明では薬としても用いられていたそうだが、スペイン人の到着により染料として大量に輸出され、ユカタン半島西部にある積み出し港カンペチェの繁栄をもたらした。そして、その富を狙うパイレーツ・オブ・カリビアン達の度重なる襲撃を受けることにもなった。


世界遺産、サン・ミゲル要塞
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 なお、ヘマトキシリン自体は無色。その誘導体ヘマテインとアルミニウム錯体ヘマルムが色を放つ。それらの濃度や配合のちがいにより、マイヤー・ギル・カラッツィ・ハリスなどさまざまなブランドがあるようだ。

B. エオジン

 プロシア領(現ポーランド)生まれの化学者ハインリヒ・カロ(1834-1910)が、Chemische Fabrik Dyckerhoff Clemm & Co.(現在の化学メーカー最大手BASF)にいた頃、フルオレセインの研究過程でみつかった染料で、細胞質などを薄赤~ピンクに染める。

 そしてなんと、その名の由来は彼の幼馴染アナ・ピータースのあだ名、エオス(ギリシャ神話にでてくる、暁の女神)にちなむ。「ばら色の指」と形容されるエオスだが、アナもそのように美しい指をしていたのだろうか。


イヴリン・ド・モルガン『エオス』
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 現在よく用いられるのはエオシンYで、1902年にノーベル化学賞を受賞したエミール・フィッシャー(1852-1919)が発見したもの。そして、ヘマトキシリンとエオシンを最初に組み合わせて報告したのはロシア・カザン帝国大学の講師、Wissowzkyとされる(Archiv für mikroskopische Anatomie 1876 13 479)。

C. PAS

 PASのPAは、過ヨウ素酸(per-iodic acid、HIO4)。最高酸化数(+VII)のヨウ素をもつ強力な酸化剤だ。それにより多糖類からアルデヒド基が立ち上がり、そこにSchiff試薬が反応して赤色になる。

 なおSchiffとは、ドイツ出身の化学者ユゴー・シフ(1834-1915)のこと。尿素をはじめて合成した有機化学の祖、フリードリヒ・ヴェーラーに師事していたが、政治的な理由でイタリアに移住・帰化した(ヴィクトル・ユゴー著『レ・ミゼラブル』のクライマックス、1832年の6月暴動と同世紀のことである)。


『民衆の歌』より
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D. PAM

 Periodic acid methenamine silver、つまりPASとメセナミン銀染色をあわせたものだが、米国ではもっぱらJones' methenamine silver (JMS)と呼ばれる。考案したのはデヴィッド・B・ジョーンズ先生(1921-2007)で、SUNYシラキュースで永らく教鞭をとり研究をつづけた腎病理医だ(染色を有名にした論文は、Am J Pathol 1951 27 991)。

E. マッソン・トリクローム

 マッソンとは、Claude L. Pierre Masson先生(1880-1959)のこと。フランス生まれでパリ大学医学部をでて、パスツール研究所・ストラスブール大学で神経内分泌学や脳腫瘍病理などで業績を残すかたわら、この染色を編み出した。

 トリクロームとは3色の意味だが、本来は赤血球(鮮やかなオレンジ~赤)、フィブリン・筋線維(赤)、コラーゲン線維(青)の違いを区別できる染色という意味だったようだ(実際は、鉄ヘマトキシリンで核を黒く染めるので、黒・赤・青の3色)。

 赤と青では2色だが、背景の白で(フランス国旗のように)3色なのかもしれない。筆者としては、1927年にモントリオール大学に移るまで第3共和政時代のフランスを生きたマッソンが、トリクロムとトリコロールにどんな思いがあったのだろうかも興味深い。


フランス王家の紋章を抱く、ケベックの旗
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F. コンゴ・レッド

 最後にコンゴ・レッドの由来について。1883年、バイエル社にいたポール・ベッティンガー(生没年は未確認)が発明した染料だが、その由来は翌年にビスマルクの主導で開催された「コンゴ会議」だ(英語では西アフリカ会議、日本語ではベルリン会議とも)。

 この会議はコンゴ地域の領有をめぐる欧米列強の争いを調停する目的で開かれた。しかし、この会議により列強によるアフリカ支配の原則が確認され、以後アフリカ分割が本格的に進行することにもなった。


会議の様子(出典はこちら


 とにかく当時、ドイツでは「コンゴ」が流行語だったらしく、キャッチーだとして命名されたのがコンゴ・レッドだ。バイエル社・BASF社・Hoechst社に特許申請を断られたベッティンガーとしては、売り込もうと必死だったのかもしれない(最終的にAGFA社が合意した)。


☆ ★ ☆


 いかがであろうか?当たり前に鏡検している染色の裏に、このような世界史とドラマがあったなんて、筆者としては驚きだった(ちょっとした旅行気分も味わえた)。コンゴ・レッドの命名は複雑だが、今後アミロイド染色は、コンゴレッドよりよく染まるダイレクト・ファスト・スカーレット(DFS)に替わっていくのかもしれない。



東大寺の金剛力士像
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