腎代替療法を要する段階を英語で「ESKD(end-stage kidney disease)」と呼ぶ。もとは「ESRD(end-stage renal disease)」と呼ばれていたが、renalという言葉はラテン語で分かりにくいので、キドニーになったことは以前も紹介した(こちらも参照)。
今回は略語の後半ではなく前半、EとSについて考察したい。
欧州やアフリカなど各地で観察研究を行った(国境なき医師団の活動にも参加した)米国の医療社会学者、レネー・フォックス著『生命倫理をみつめて 医療社会学者の半世紀(中野真紀子訳、みすず書房、2003年)』に、以下のような指摘がある。
「腎臓病の最終段階」という用語は、カルテなどにはESRDと略して書かれます。人工透析や腎臓移植によって、もはや腎臓が機能しなくなった患者も無限に生きつづけられるようになった今、腎臓病においては「末期(ターミナル)」というより「最終段階(エンド・ステージ)」と呼んだ方がおそらくより正確になってきています。
日本語ではどちらも「末期」と訳されるが、「エンド・ステージ」は「ターミナル」とは違うニュアンスをもつ言葉である。「エンド・ステージ」とは、そこにとどまることである。そこから始まるとすら言えるのかもしれない(筆者もCKD外来ではそのように説明することも多い)。
同書を読んで、「末期」という言葉を使うことで患者や社会に「もう終わり」という感覚を無意識に与えていないか心配になった。よい言葉がないか、思案中である(直訳の「腎臓病の最終段階」でも悪くはないのかもしれないが)。
また著者は、アクロニム(アルファベットの略語)で表現することで、医療者たちはこの段階の患者に治る見込みがなく、腎代替療法にも限界があるという現実を突きつけるこの言葉から解放されるとも指摘する。
筆者もカルテに「ESKDへの備え」などと無意識に書いている。書く手間を省くのもあるが(著者も略語が時間とスペースの節約になることは認めている)、やはり現実を直視したくないのかもしれない。
暗黙知の概念で知られる物理学者・哲学者のマイケル・ポランニーは、『知と存在-言語的世界を超えて-(佐野安仁・澤田允夫・吉田謙二監訳、晃洋書房、1985年)』のなかで以下のように述べている。
問題を見つけ出すことが、どんな発見にとっても、また実際どんな創造的行為にとっても、その最初の一歩である。問題を認識することは、いつか到達できるかもしれない隠されたなにかを認識することである。
筆者も、こうして得た認識から、「いつか到達できるかもしれない隠された何か」を暗黙のうちに認識しているのであろうか・・。いつかはそれが分かるようになりたいものである。
ミスター・チルドレン【es】 ジャケットを元に作成 (1995年、こちらより引用) |